かっこよく介助を 4

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お手伝いしましょうか

と、声をかける前に

 「たすけてくれえ」と叫んでいない限り、いきなり手を出してはいけません。それは、手を出される方にしたら、いきなり手を掴まれて引っ張って行かれるのと同じことです。

 相手の様子を見て、自分に何ができるか考えてください。階段を車いすごと担ぎ上げて欲しい私に、ピンヒールを履いた華奢な女性であるあなたが声をかけてくださっても困りますし、一杯気分で千鳥足のあなたが声をかけてくださっても私は困ってしまいます。

 自分ができることを申し出るような「お手伝いしましょうか」は、とてもありがたいものです。それは、あなたが私のことをきちんと見て、理解してくれた上で気にかけてくれた証拠だからです。声をかける前からコミュニケーションは始まっています。

 ちなみに、よーのすけが、感じ入った、「 Can I help you?」をいくつか紹介します。

 いずれも、単なる「お手伝いしましょうか。」ではなく、よーのすけが、今何に困っているように見えて、それに対してご自分ができそうなことを教えてくれています。坂の中途でヒイコラ言っているのを見て、「坂の上まで」と言い、歩道をよろよろ漕いでいるのを見て、「自分はどこまで行くけれども、行き先は一緒ですか」と確認してくれています。こういうとき、ただ「押しましょうか」と言われても、(言語障害がなければそうでもないのかもしれませんが)どう答えていいか、とても困るのです。「この先には階段しかない。そして自分はエレベータやスロープがどこにあるのかは知らない」というのも、この先車いすに乗ったよーのすけが困るであろう事態を見越して困らないように「介助」をしてくれ、また自分ができる範囲を教えてくれています。

声のかけかた・タイミング

 忘れないでください。車いすに乗っていても、車いすユーザーはあなたと同じ人間です。普通に歩いていて、いきなり知らない人に「お手伝いしましょうか。」と声をかけられたら、リアクションに困りませんか。自販機の前で、財布を探してかばんをかき回しているところへ、「お手伝いしましょうか」と声をかけられたら、「何をだよ」って思いませんか。

 車いすユーザーにとって、車いすで動いているのはごく当たり前のことで、その意味では、介助を申し出ようとするあなたと全く同じ感覚で動いています。「車いす抜きの人が同じ状況にあったら、助けに入るかどうか。」 これが、スマートに介助を申し出る一つのカギです。

声をかけたら、返事が返るのを待ちましょう

 「手伝いましょうか」「○○しましょうか」と声をかけたら、相手がどんな返事をしたか、確認できるまで待ってください。相手は言語障害があって、答えるまでに時間がかかるのかもしれません。また、耳にも障害があって、ちゃんと聞こえなかったり、話すことができないのかもしれません。考えるのに時間がかかって、話すまでに時間が必要かもしれません。でも、必ず答えは返ってきます。その反応を待つだけの余裕を持って声をかけてください。

 こんなことを言うのは、通りすがりに「お手伝いしましょうか」と言いながら返す言葉で「いりませんか」といって残念そうに通り過ぎてしまう人が結構おいでになるからです。こちらの息が上がっていて、すぐには返答できないのは見て取れるはずなのに。しかも、よーのすけには、どもり系の言語障害があってすぐには言葉が出ません。言語障害までは気が付かなくてもいいけど、息切れしているところくらいは見て考えてくれ、と思ってしまいます。せっかくのあなたの勇気を一方通行にしないように…。

通りすがりの介助でも、介助はやはり本人主導で

 「お願いします。ありがとう。」と言われたら、あなたが具体的に「○○しましょう。」と申し出たのでない限り、何をどうしたらいいかを確かめてください。決して思いこみで行動しないように。

 介助を受けるよーのすけたちは、通りすがりのあなたが、「何も知らず、何もできない」と思って、介助をお願いするはずです。ですから、初対面のあなたに、きちんとやって欲しいこととそのやり方を説明するはずです。たとえあなたが首から「介助のプロ」という巨大看板を提げていたとしても、初対面である限り、よーのすけたちは、まず、やって欲しいことを説明するでしょう。少なくとも単独で外を歩いている人たちは、自分がどこまで出来るかをちゃんと知っており、その範囲では自信を持っています。それとともに、何か自分の力が及ばないことが起きて、誰かの助けが必要になったとき、どうすれば必要な助けを得られるかも知っています。

 行く先々で、通りすがりの人に、車いすを押すのはもちろん、食事やトイレの介助までも頼みながら動いている、ごく重度の障害者たちを、よーのすけは何人か知っています。通りすがりの人が、重度障害者に関わったことがあったり、ましてや介助の経験があったりする、なんてことは滅多にないはずですが、それでも、事故にあったという話もとくに聞きません。少なくとも、耳を傾けてくれる人を捕まえることさえできれば。「手伝ってください」と声をかけるタイミング、そして誰に声をかけるか、という間合いを計るのも、結構難しいものです。男の人が、男の人の介助を求めているのに、女性が声をかけたりしても、断るしかないですしね。

 介助を受けるよーのすけたちにとって、道行く人たちが車いすの扱い方を知らないことでは決して問題ではありません。介助を受ける側が一番怖いのは、介助をしてくれる人たちが、自分の言葉を理解してくれないことなのです。

周囲の他人たちに関心を持とう

 とある高校生が新聞にこんな投書を寄せていました。日本では、車いすの人が電車に乗るのに、駅員の人が何人も付いて、電車に乗せるための板まであって大騒ぎだ。しかし、自分が住んでいたドイツでは、駅員が介助するなんてことはなく、乗せるための器具なんてものもなく、乗客がやっていた。日本人は自分が客だから何もしなくていい、駅員の仕事にしておけばいい、と思っているのだろうか、と。

 介助を受ける「障害者」の側から、しかもハード面の現実をいっぱい知っているよーのすけから見れば、そりゃ、「日本の鉄道は駅員がいないと車いすで移動も利用もできない仕組みになっているから。しかも、100キロを越える電動車いすなんて、生身の人間だけじゃどうにもならないじゃん。」と言いたくなるところですが、ここではそういう現実は置いておきまして。

 これは、やはりドイツに住んでいた友人のエピソードです。身長175センチ、日本人男性としては中肉中背のこの青年、ドイツの駅で、キャスター付きの旅行用キャリーバッグを持って階段を登っていたら、通りすがりの人が当たり前のようにバッグを持って上がってくれたらしい。れっきとした青年男性ゆえ、「それは良かったですねえ」と素直には言いにくいものがありますが(よほどバッグに引きずられているように見えたんだろうな)、要するに、彼らは、周囲にいる見知らぬ人々に対して関心を持っている、ということなんでしょうね。たまたま居合わせた人との無言のコミュニケーションがあるわけで、そこでの立ち居振る舞い方が、そういう方向に働く、というわけです。車いすユーザーとか、あかちゃん連れとか、お年寄りとかに対する態度も、そういう他の人たちに対する振る舞い方の延長上にあるのでしょう。すぐ後ろから歩いて来る人のために、ドアを開けておくことに気付かないんじゃ、車いすユーザーのためにドアを開けとこうなんて気が付くわけもありません。つまり、相手の様子に対して適切なリアクションが取れない、ということです。

 介助を申し出て、「結構です」と断られてしまうと、意気消沈してしまう人が意外に多いようです。そして、「自分が何か悪いことでも言ったのかしら。手伝いを申し出て、自尊心を傷付けたかしら。障害者って難しいから。」と、心配になってしまうようですね。

 介助される側も、実は結構大変なので、それだったら自分でやっちゃった方が、と思うこともあります。「人に頼むより自分でやった方が面倒でも楽だわ」という経験は、健常者の人たちもしているはず。人様にものを間違いなく頼むって、実は自分の方にも余裕がないとできないのではないでしょうか。それは障害者でも同じことなんです。だから、もし、「あ、車いすユーザーが何かしてる。困っているに違いない」と、もし思って声をかけてくれたのなら、声をかけられた方は、かけられたことで戸惑ってしまいます。そして、もし「結構です」と断られたのなら、それは、いろいろな要素を勘案して、この状況ではあなたに頼まない方が楽だ、と判断されただけのことです。車いすユーザーでない人だって同じことなんです。


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車椅子で彷徨えば扉
Yoonosuke Hazuki[Mail_ocean@mbc.nifty.com]