どこまで彷徨う  >方向音痴

移動障害における方向音痴

世の中は2本の足を交互に動かして移動する人の感覚で出来ている。
だから、そうでない人にとっては、
方向感覚からして違ってきてしまうのではないか

 どうして、こんなに迷子になるんだっ。

 とにかく方向音痴のよーのすけ。今来たこの道帰りゃんせ、と言われても、絶対帰れない、という自信があります。左折して入ったところを左折して出てしまう。今来た道を逆走すると違う道に見える。何回も行っているところへ迷わず行けない…等々。
 よーのすけの家族もみな方向音痴ですし、方向音痴を自慢にしている人は少なくないので、それ自体は、「障害」と無関係に見えます。しかし、よく考えてみると、単なる方向音痴というだけではなくて、「移動に障害があること」により、通常培われるはずの方向感覚が欠如してしまうことがあるのではないか、ということに思い至りました。
 歩けないことと方向音痴の因果関係は、別に確固たるものではないです。繰り返しますが、歩行障害がなくても、よーのすけは方向音痴だったでしょう(きっぱり)。その上、周囲に車椅子の人いないもんで、自分以外のサンプル、ないですし。個人的経験に基づいたいい加減な仮説ではあります。でも、思い当たる人、いませんか。

道を覚えていない?

 我ながらひどい、と思ったのは、数年間にわたって少なくとも週一回、あるいは毎日送り続けてもらった道を、初めて自分で運転したところ、自信を持って道をたどることが全然出来なかった、ということ。アンタここ何回通っているのよ、と、助手席の母(彼女もすごい方向音痴)にさんざん言われましたけど。そのときつらつら考えてみたんですが、私、自分一人でどこかへ行ったことって、学校内の教室移動ぐらいしかなかったんですよね。買い物とか、映画観に行ったりとか、全部付き添いつきで連れていってもらうしかなかったし、しかも、車椅子でなしに歩いていたので、足を交互に動かすので精一杯で、周囲の風景なんて見る余裕なかったし。それで、そもそも道を意識するという習慣が全然なかった、と言っていいくらいだったんです。

車の運転を始めて…

 そんなよーのすけも、車椅子を使うようになってから、次第に一人で歩く距離が増えてきました。とはいっても、所詮は脳性マヒ。街など長距離は一人で歩けず、誰かに押してもらうので、結局なかなか自分で道を意識しません。
 本当の意味で、「一人」で移動せざるをえなくなるのは、車の運転を始めたときです。人間の感覚って、やはり歩くスピードで養われていくものなんですね。毎日通っていた大学、中学生の時代から通っていた所へ行こうとしても、どうしていいかわからないほど、道に対する感覚がなかったのです。教習ルートなんて(あれは必死なので、一般にそうなのかもしれませんが)、未だに全然再現することができません。
 さすがに車の運転十年目になった今では、車で行く分に関しては。それほどひどくはなくなり、一人で運転はできるようになりました。が、かなりひどい方向音痴です。そして、「歩く」ということに関しては、なおも、通常の人々が無意識に発揮するカンが働きません。建物の中など、よく知っている場所でも、よく迷います。

車椅子みちをゆく

フロアの移動 方向感覚がずっこける理由は、実はそれだけではありません。「エレベータ」です。歩くことを放棄して、もっぱら車椅子移動になってわかったことですが、車椅子ルートというのは二足歩行ルートとはかなり違っており、異常な回り道を強いられるのです。校舎やデパート、といった大きい面積の建物の場合、通常エレベータだけではなくて、階段やエスカレータが、エレベータよりもたくさん配置してあります。普通の移動ルートを使う人は、複数のルートを使います。
 右の図を見て下さい。AからBへ降り、もう一度Cへ上がる、というケースです。エレベータは右の手前に一カ所だけ。階段を使えば、AないしBに一番近い階段を選択し、最短距離をえらぶでしょう。ところが、車椅子では、いちいちエレベータまで戻らなければならないわけです。つまり、普通に歩く人ですと、今ここにいて、この真下に行きたい場所があるからこの階段を降りよう、とか、近道を判断するために、位置を立体的に捉える必要がありますし、またそうすることができます。しかし、上下移動ルートがエレベータしかない人の場合、必ずエレベータ起点でしか、位置を把握できないのです。つまり、この下に何かあるか、なんて、全然実感できないわけです。できても無駄なので、しませんしね。同じ階に段差があって、一カ所しかスロープでつながっていない、なんていう場合、とんでもない大回りを強いられたりします。車椅子用の別ルートが設定されていたりすると、ますます自分がどう歩いているのかわからなくなり、頭の中の地図は、複雑怪奇なものになっていきます。つまり、車椅子を使っていると、言われるままに歩くしかなく、その結果、方向感覚を養う機会を奪われてしまっていたといえます。

で、ひとりでどこかへ行けるわけ?

 結局のところ、ここでも「選択肢の少なさ」が、経験不足を産み、能力を狭めてしまったわけです。美術館、デパートなどでも、一般に開放されているルートを歩くことができず、係員の誘導にしたがって歩くほかないケースがしばしばあります。親切にされているように見えますが、実はそれは、自分の判断に従って行動できないということを意味しているのです。そして、そうしたことが積み重なり、とりわけ幼い頃からそうしていると、まちを主体的に歩く経験を積むことができず、必要な判断能力が養われません。必要ないからです。そして、恐ろしいことに、街を歩くということがそもそもできなくなってしまうのです。
 もちろんのこと、物理的な問題はあります。介助者なしでは歩けないという人もいるでしょう。
 けれど、やはり、「自分が行きたいように」出掛けるためには、自分が主導権をとらないとなかなか思うようにいきません。で、主導権をとるには、自分の行く道をちゃんと把握しておく必要があるんです。それでないと、結局どこへも行けなくなってしまう…。

方向音痴って、直るもん?

これは、…わかりませんねえ。
 このサイトを作り始めて、わかったことがあります。「彷徨日記」を書くにあたり、歩いたルートを再現するわけですが、階段とエスカレータ、どっちが先だったか、とか、エレベータで登ったか・降りたか、の記憶が、きわめて曖昧なんです。鉄道駅にかんする情報が、このコーナーではメインになっています。しかし、まさに、その「駅」では、もっぱら駅員さんの誘導のもと、エレベータ操作なども全て駅員さんがします。車椅子を押してくれない駅員さんでも、エレベータのコンソール操作は、絶対駅員さん自身がやり、よーのすけには触らせません。帰宅してから、はて、エレベータ何回乗ったっけ? あれは何階だったっけ? と頭をひねることになります。初期の記事に「?」が多いのはそのせいです。
 しかし、歩きの人と違って、車椅子ユーザーにとって重要な情報は、A地点がx階で、B地点がy階である、ということではなくて、A地点からB地点に行くまで、どこまでは自力で行けて、何回人の手を借りる必要があり、それをどこでどう調達するか、なんですよね。乱暴な言い方をすれば、目的地に行くために、自分がどこにいるか、は、全く問題じゃなくて、どういう手段で行くのか、が問題なのです。その意味では、「ホームから駅の外に出るまで、おみこしになるのが1カ所、介助が2人必要なエスカレータが1本で、これは怖いんだよね。駅員さんが出してくれる改札は、その先が階段で、近くに、スロープがあったよな。あの入り口にも段差があるから、隣の建物のバックスペースのエレベータで、つながってるところまで上げてもらう。」なんていう覚え方しかしていないのは、きわめてまっとうだとも言えます。歩きバージョンなら「到着ホームが地下2Fで、一番近いC改札に出るには中央階段ね。改札を右に出て正面に見える赤い建物の5F。」というんでしょうが。
 とはいえ、これでは人様に説明できませんから、これはやばい、と、メモなどを取るように心がけるようにして訓練しましたが、やはり、移動中は、何か他のことを気にしているらしく、記憶がとっても曖昧です。先日、「方向音痴にかんする調査」に協力し、採点してもらったところ、よーのすけ、総得点では、方向音痴グループの平均点と、そうでないグループの平均点の真ん中に位置してましたが、「目印を覚えていない」という項目の得点が方向音痴グループの平均点を下回っておりました。
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Yoonosuke Hazuki[MailTo_ocean@mbc.nifty.com]