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ボディ・サイレント −病いと障害の人類学−

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ボディ・サイレント (平凡社ライブラリー)
ロバート・F・マーフィー
平凡社
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 この本の構想は、長い間私の脊髄を蝕んできた病いが、人類学者である私にとっては、長引いた人類学的" 現地調査旅行(フィールド・トリップ)" の一種に他ならない、という認識とともに始まった。思えばこの病いのおかげで、アマゾン奥地で私が経験したのにも劣らず奇妙で不可思議な世界に私は滞在することになったわけだ。旅で見聞したことを書き記し報告するのは人類学者たるもののつとめだろう-----それが地球の裏側のはるかな旅であれ、あるいは、足元にポッカリと開いた暗い穴の中への、これまたはるかな旅であれ、だ。この本は私の旅の報告書である。
 私は多くの目標を持ってこの本を書いた。しかしその中で一番重要なことは、一般の読者と世界中の身体障害者に向けて、第一に、身障者と彼が生きている社会との関係を明らかにすること、そして第二に、それを通して人間が社会に生きていくと言うことの意味を考えること、にある。

 1992年に邦訳された本書は、私の「障害者」の見方に大きな示唆を与えた。「障害」が社会的に作られるものであることは漠然と理解していたが、それがきわめて論理的に、様々の知的道具立てを用いて語りうることを初めて知ったのは、本書においてである。アメリカ障害者法が1995年に出来て以後、障害者を取り巻く状況が急激に変化したことを考えれば、原書の出版が1987年、記述の中心が70年代から80年代と、本書の描き出す「事件」はいささか古くさく感じられるかもしれない。また、ここ十数年のフェミニズム、マルチカルチャリズム(文化的多元主義)の発展は、障害者の自己認識を大きく変え、「障害」を、克服すべきものから「個性」へ、そしてさらには、マイノリティ文化と同じような一種の独自「文化」へと展開していく可能性さえ引き出している。本書は、「障害」を、ネガティヴにとらえすぎているかもしれない。

 しかし、それにもかかわらず、本書の視角は、今もなお、私の「障害者」としての皮膚感覚でもって納得出来るものである。障害論として、おそらく普遍的な核を持っているのではないだろうか。

 著者ロバート・マーフィーは人類学の草分け的存在である。人類学教授としての確固たる地位を築き、中年期から老年期にさしかかろうとしたその時に、脊髄にできていた腫瘍のため、彼は「障害者」となることを余儀なくされた。この「転落」は、彼に苦痛とともに、数々の不思議をもたらした。彼は、自らの状況を一つの世界から別の世界への移行と捉え、あたかも未知の文化的種族の村に住み、その生活を記述するかのように、住み慣れたアメリカ社会への探検を開始した。

 本書において、障害は「境界状態 ( リミナリティ )」という枠組みでとらえられる。レヴィ・ストロースに代表される構造主義的分析によれば、人間は、二項対立や三項対立といった、美しい幾何学図を描いて説明できるような構造に、混沌とした生の現実をはめ込むことで、世界を解釈している。人間の思考方法は、どちらかと言えば「デジタル」なのである。「境界状態 ( リミナリティ )」とは、その中間地帯、つまり「どっちつかず」の状態である。最もわかりやすいのは入院だろう。病気になれば、人々は、この世界からいったん撤退し、療養生活に入る。一定の隔離期間を経て、病人はこの世界に再統合されるか、あるいは、死の世界へと入る。それにより、世界は再び秩序を回復するのである。そうだとすれば、障害は、この世界に迷い出た何者かである。再統合のための療養としてこの世界から撤退することなく、再統合を求めるその存在の中途半端さは、デジタルな人間の思考にとって、世界の秩序を根底から揺るがすものと感じられるわけである。生の現実は、むしろアナログであり、人間の思考するように「健常」と「障害」にはっきりと分かれるわけではない。むしろ、健常と障害の要素を少しずつ併せ持つという方が正しい。社会とは、両者の間にくっきりとした境界線をひき、健常を自らの世界として囲い込まれたものである。境界線の位置は、その社会の歴史と文化により設定される。この意味で、障害者は社会的に創り出されるのである。社会的周辺に位置して絶えずこの世界への突入を繰り返す、「どっちつかず」ではあるが、きわめて動態的な状態、それが障害者の位置する境界状態なのである。

 さて、本書の著者であるマーフィーは、障害を得たとき、社会の中に確固たる地位を持っており、いわばすでにこの世界の中心に位置を占めていた。したがって、彼の、この世界への「突入」は、まさにこの世界への復帰という形をとる。すでにこの世界の中で十分な教育を受け、社会生活を営んで来た彼にとって、社会への再統合は、かつていた位置へと立ち戻ることである。もちろん、その性質は、かつてのものとは違っていただろう。また、かつての友人たちが、元気だったころの彼を知るがゆえに、関係を再び取り結ぶことにはしばしば困難を伴ったということも指摘されている。だが、彼にはそうして離れていった人々と同じくらいの数の人々と、再び関係を回復しえた。著者の社会的属性からして、彼らもまた、社会において中心的な地位を占める人々、社会的上昇に成功した人々である。  しかし、生まれた瞬間に、社会的周辺部、あるいはこの世界の外側に置かれてしまった人々はどうだろう。つまり、生まれついての障害者、----たとえば----そう脳性小児マヒ----たとえば私自身----である。

 私は、およそ意識を持ったそのときから、「障害児」だったと思う。赤ちゃんの時は、みな一つの赤ん坊の世界に属していたとしても、間もなく、彼らは、こどもの社会へと入り込んでいき、社会に統合される準備を始める。しかし、私はこの段階ですでに「障害児」であり、そのように取り扱われた。彼らと私は違う世界に属していた。そして、その段階ですでに、障害児が健常児の仲間に入れてもらう、という形がとられたはずだ。こどもの世界では、差別はないというかもしれない。しかし、「あいつを仲間に入れるか入れないか」という場合、「あいつ」が障害児と意識されるかそうでないかにより、意味合いは違ってくるだろう。生まれてからこの方一度たりとも、完全に社会に統合されることなく、境界状態にしかいられなかったとすれば、少なくとも「社会復帰 ( リハビリテーション ) という言葉はそぐわない。その人生は、この世界への絶えざる突入の繰り返しなのだから。境界状態において、こどもから大人へと成長し、経験を積み、自意識を育てるということは、換言すれば、この世界との対峙を意識しつつ、この世界の中に自らの位置を創り出していくことではないか。ア・プリオリに社会の中に住まっている人々と違い、社会との関係は、一人一人が作り上げていかねばならないのである。そして、その関係は、成長段階によって異なるため、常に新しい経験をすることになる。と同時に、その関係は、経験を重ねることによってしか体得できない。統合とは、一人一人が社会の中にそれぞれ位置を占めるということにほかならない。つまり、社会的統合は、障害者/健常者の境界線が文化的・歴史的に形成されるという意味では、社会的で集団的であるが、同時に個人的な経験にきわめて大きく依拠しているのである。個人的経験の点で、生まれついての障害者と中途障害者の間の差は大きいといえよう。社会の中心部と周辺と、そのどちらで経験を多く積んだか、ということは社会との関係を築く上で大きな差になるに違いない。

 この意味で、教育における「統合」は、障害児にとってきわめて重要なことである。というのは、そこで、障害児は、この世界への突入の仕方、社会での位置の占め方を獲得するであろうから。それは、おそらく障害児交流では生まれることはあるまい。後者は、この世界の中心が、周辺に向かって腕を伸ばしているだけだからである。社会の方が、視線を「下げる」ことにより、周辺と接触をはかるわけである。それは、突入してくる異分子を、内に取り込む「統合」とは異なる。周辺から中心に向かう「上昇的」な運動を含意しないのである。そして、彼または彼女が、社会に場を占めることにより、社会の秩序であるあの枠組みも変化を被らざるをえない。だからこそ、突入の際には、しばしば抵抗を受けるわけであるが。

 もちろん、突入が繰り返されることにより、新たな歴史が作られ、文化が変化して「障害」の枠組みは変わる。しかし、眼鏡の発達により、ほぼ盲人に近いような近眼が障害からはずれたように、「障害者」が完全に社会に統合されるということがあり得るのだろうか。境界状態による障害の理解は、「自立」とか、「社会参加」とかいった、ある意味で自明だが、ある意味できわめて恣意的に使われているという疑いを持たれる言葉を、整理するのに有効だと思うのである。

 どーも、めんどくさいもの読ましてすいません。そもそも普通書評っていうのは新刊に対してやるもので、十年近く前の本を紹介するものじゃないのですけどね。でも、この本は、よーのすけにとって非常に大きな存在ですし、それまで、もにゃもにゃしてたものが、ものの見事にすっぱり整理されてしまった読み物だったので、どうしても紹介してみたかったわけ。
 この本、一応一般向きの本として出ているのですけれども、少々難しいらしいんだな、これが。こんなにすっきりわかる障害者論はない、と思って、障害者問題の勉強している後輩たちに勧めるんですけど、なんか理解の外になってしまうようで。おまけに、よーのすけのアホが、異常に難しげな書評付けちゃったので、ますます読みたくなくなっちゃったかもしれませんけど。
 でも、障害を持つ身分だと、事実確認の部分をすでに体得していますから、理解は楽でしょう。障害者自身が自分の地位を確認するキーワードを見つけるにはいい本だと思います。


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車椅子で彷徨えば扉
Yoonosuke Hazuki[Mail_ocean@mbc.nifty.com]